論語指導士の資格保有者である当会代表による、「論語」を武術を学ぶ者にとっての心得として読んでいこうという特別企画。
武術家のための「論語」講座、開講!
「論語」x「中国武術」コラボレーション特別企画
『論語と武術』
『論語と武術』
「はじめに」
試みに「論語」を武術を学ぶ者にとっての心得として読んでいきます。
中国武術の技法の中には、ある種のズルさのようなものがあります。
中国人の思考、中国的な発想とでも言うべきもの。それを自制する倫理哲学として、論語は相性が良いのです。
武術によって身体を鍛え、論語によって武術家としての徳、道徳心を養う。
己を鍛え、人格を磨き、心身ともに健康で豊かな社会生活を送れる、文武を兼ね備えた立派な武術家となることを願います。
「凡例」
本文に収録した「論語」の原文、書き下し文、および解釈は、加地伸行 著『論語 全訳注 増補版』講談社学術文庫に拠る。
書き下し文中の括弧は読み仮名を示す。
原文の漢字は旧字体を用いた。
意訳の部分は武術を志す者にとって理解しやすいような視点で補足して訳した。
(大阪大学名誉教授 加地伸行先生は、一般社団法人 論語教育普及機構の代表理事。論語教育の第一人者である。筆者は、論語教育普及機構が認定する論語指導士の資格保有者)
一,
「書き下し文」
子曰く、学びて時(つね)に之を習ふ。亦(また)説(よろこ)ばしからずや。
朋 遠方自(よ)り来たる有り。亦楽しからずや。
人知らずして慍(いか)らず。亦君子ならずや。
(学而 第一)
「原文」
子曰、學而時習之。不亦說乎。有朋自遠方來。不亦樂乎。人不知而不慍。不亦君子乎。
「意訳」
先生に武術の動作や技を教えてもらったら、それをいつでも実践できるように常に復習する。そうやって技が自分の身についていくというのは、何とも愉快なことではないか。
同じ武術を志す同門の友人が、遠いところから訪ねてきてくれる。何とも嬉しいことではないか。
世間になかなか私の実力を認めてもらえないとしても、耐えて怒らない。それが本当の武術家というものだ。
「解説」
学びて時に之を習う。先生から武術の技や型を教えてもらっても、それが実際にできるようにならなければ意味がありません。
論語のこの「時に」は「常に」の意味。時々、という意味ではないので注意。
「常に、何度も繰り返して」という所が大事なのです。
考えてもみてください。時々復習するくらいでそれが身についたりはしないのです。
繰り返し実践していくうちにそれが身についてくる。身について出来るようになるから、楽しいのです。
懸命に練習し、技を身につける努力をしていても、なかなか世間にその実力を認めてもらえない、ということは誰しもが経験することだと思います。
そんなとき、他人に八つ当たりしたり、不貞腐れて投げ出したりせず、じっと耐えて怒らず努力を続ける。他人に認めてもらいたいから頑張る、他人に自慢したいから頑張る、などというのではなく、自分自身の成長のため、高い理想と志を持って頑張る。
そうであってこそ、本当の武術家というものです。
四,
「書き下し文」
曾子曰く、吾 日に吾が身を三省す。人の為に謀りて忠ならざるか、朋友と交わりて信ならざるか、習わざるを伝えしか、と。
「原文」
曾子曰、吾日三省吾身。爲人謀而不忠乎、與朋友交而不信乎、傳不習乎。
「意訳」
私は毎日いろいろなことについて反省する。
例えば、同門の仲間や後輩のために相談に乗りながら、いい加減な返事をするようなことはなかったかどうか。
仲間や後輩との練習のなかで、言葉と行動が違っていなかったかどうか。
武術の技や身法がまだ充分に身についていないのに、知ったふりをして仲間や後輩に教えるようなことはなかったかどうか、という具合である。
「解説」
三という数字は、何度も、とか、たくさん、というような意味合いです。
色々なテーマについて、毎日自分自身の言動を振り返り、反省します。
例えばこの章句では、誠実さをテーマにしています。誠実でなければ、人からは信用されません。ですから、仲間に対して、また、後輩に対して、誠実に接することが大切です。
相談を受けながら、適当な返事しかしなかったら、その相談した人物はあなたのことを信用しなくなります。
練習のとき、口では偉そうに言ってても、行動がそれに伴わないと、やはり信用をなくします。武術の技や身法をまだ理解できていないのに、さも理解できている、という風に振る舞い、知ったかぶって適当なことを教えると、これもやはり信用を失います。
十三,
「書き下し文」
子貢 君子を問ふ。子曰く、先(ま)づ行ふ。其の言(げん)や而(しか)る後に之に従ふ、と。
「原文」
子貢問君子。子曰、先行。其言而後從之。
「意訳」
弟子の子貢が君子とは何かをお尋ねした。
孔子は言った。「先ず行動することだ。その説明については、行動した後でする」と。
「解説」
孔子が理想とした君子、教養人のあり方は、先ず行動し、説明はその後でするのだ、と述べています。文武を兼ね備えた立派な武術家の姿も、そうありたいものです。
難しげな理屈や理論をこねくり回すだけでその人自身は行動しない、という人や、「誰某さんはすごい!誰某さんはすごい!」と得意げに人脈を自慢しているがその人自身は行動しない、という人がいます。
口ばかりで行動が伴わないというのであれば、その言葉には説得力もなく、誰からも信頼を得られません。
何事も理屈っぽく、あれこれ言い訳をしては、なかなか行動に移さないというのであれば、自分の成長を阻害してしまいます。
まずは最初の一歩を踏み出すことが大切です。行動しなければ、何も始まりません。誰よりも率先して行動するように心がけましょう。
二十六,
「書き下し文」
子曰く、上(かみ)に居りて寛(かん)ならず、礼を為して敬せず、喪に臨みて哀しまずんば、吾 何を以て之を観んや。
「原文」
子曰、居上不寬、爲禮不敬、臨喪不哀、吾何以觀之哉。
「意訳」
指導者として、人の上に立ちながら他人には厳しく、礼法は正しいが気持ちがこもらず、喪儀に参列してもまごころがない、というようでは、私はそのような者を見たくもない。
「解説」
喪儀は儒教において非常に重要な儀式のひとつでした。
武術の指導者という観点で見ると、喪儀に直接関係はありません。
しかし、その喪儀という場に参列しながら、まごころがない、形式だけの振る舞いを非難しています。
つまり、これを武術の指導者に置き換えた場合、次のように解釈します。
指導者として、人の上に立ちながら、以下のような行動をとる人物を非難する。
・弟子や後輩に対して思いやる気持ちもなく、ただ厳しくあたる。つまり、叱責するばかりで、相手に適切なアドバイスをしない。
・礼儀作法の手順は正しく行えるが、その動作のひとつひとつに気持ちがこもっていない、形式をなぞるだけの行動に終始する。つまり、型は正確に覚えているものの、その型の意味を理解していないので、気持ちがこもらない。
・重要な場、例えば多くの観客を招いて行う演武会や、他の門派との交流会などの場で、観客や相手に対する敬意を払わず、そのイベントの項目を進行させることのみに終始する。
このような人物は、指導者として失格であり、会うべき価値もないのだ、ということです。
指導者として、寛容さ、敬意、まごころ、これらの要素を忘れずに、弟子や後輩、さらには関係者、客人へ接していけるような人物を目指して研鑚しましょう。
十四,
「書き下し文」
子曰く、位(くらい)無きを患へず。立つ所以を患ふ。己を知る莫きを患へず。知る可きを為さんことを求む。
「原文」
子曰、不患無位。患所以立。不患莫己知。求爲可知也。
「意訳」
己の活躍する地位がないといって歎かない。己が世に認められるだけの理由や実力があるのかどうかを反省する。
己の力量を知る人がいないといって歎かない。逆に、あの人は優れていると、こちらが知るべきことを為すようでありたい。
「解説」
学而篇の冒頭にも出てきた「人知らずして慍(いか)らず」にも関連しますが、世間に自分を認めてもらえないとき、世間のせいにしていては、己の成長は望めません。自分自身に、世間が認めるだけの実力が備わっているのかどうかを反省してみましょう。自分の足りていないところを認め、さらに鍛錬して自分を磨いていきましょう。
もし自分に実力が充分に備わっていたとしても、それが世間に認めてもらえるかどうかは分かりません。そんなときは、周囲を見渡してみてください。自分の仲間、先生、同じ武術を志すまだ見ぬ同士。きっと今のあなたに無いものを持っている優れた人物に出会えるでしょう。また、その人の良いところを見つけることができるかもしれません。そんなとき、それを素直に認め、相手に対して敬意を示して見習い、自分自身の成長のための学びとしていきましょう。
独りよがりな自己評価ばかりで、他者を全く認めない、というようでは、いずれ世間はおろか、隣の仲間までもがあなたのもとから去っていくでしょう。他者を素直に認めることです。
十二,
「書き下し文」
冉求(ぜんきゅう)曰く、子の道を説(よろこ)ばざるにあらず。力(ちから)足らざるなり、と。子曰く、力 足らざる者は、中道にして廃す。今 女(なんぢ)は画(かぎ)れり、と。
「原文」
冉求曰、非不說子之道。力不足也。子曰、力不足者、中道而廢。今女畫。
「意訳」
弟子が言った。「先生の教えが不満で実行しないのではありません。私が力不足なのです」と。
先生は仰った。「力不足の者は、途中でやめてしまうんだ。今、お前は自分を力不足だと決めつけて、自分の能力を限定してしまっている」と。
「解説」
武術を学んでいるとき、先生の言っていることは理解できても、それを実際に自分で真似てやろうとすると、どうしても上手くできないことがあります。何で先生はそんなこと(動作や技)が出来るのだろうか。先生はすごい人だからできるんであって、自分には才能が無いのかもしれない。そんな風に不安に思うこともあるでしょう。
力不足とは、その時に、その動作や技が出来ない人のことを言うのではありません。自分で自分はこんなもんだ、と諦める人のことを言うのです。
ものごとには勘所というものがあります。ここに注意すればできるようになる、というようなポイントです。先生は練習する中でそのポイントを理解して、その動作や技を身につけたのであり、必ずしも先生の能力が特別優れているから出来るようになった、というわけではありません。
ただ闇雲にやっていても、なかなか上手くできないかもしれません。ですから、どうすれば出来るようになるかを頭で考えながら、繰り返し練習することが肝要です。
二十,
「書き下し文」
子曰く、之を知る者は、之を好む者に如かず。之を好む者は、之を楽しむ者に如かず。
「原文」
子曰、知之者、不如好之者。好之者、不如樂之者。
「意訳」
武術の技や型を知識として頭で理解できたというだけでは、技や型を好んで実践する者には及ばない。
技や型を好んで実践するというだけでは、技や型が身について実践することを楽しむ者には及ばない。
「解説」
通常は「之」を道理と解釈しますが、ここでは武術の技や型と解釈しましょう。
書籍や動画で情報を得て、技や型の理屈が理解できたとしても、それを自分で実践できなければ意味がありません。
さらに、その技や型を自分で実践できるようになったら、それが身について自然とできるようになるまで何度も練習しましょう。
それが身について自然とできるようになるというのは、何とも嬉しいものです。
そういう境地を目指して、練習に励みましょう。
二十一,
「書き下し文」
子曰く、三人行けば、必ず我が師有り。其の善なる者を択(えら)びて、之に従ひ、其の不善なる者は、之を改む。
「原文」
子曰、三人行、必有我師焉。擇其善者、而從之、其不善者、而改之。
「意訳」
自分を含めて三人が同行するとき、必ず自分にとって師となる人がいる。善い人であれば、その善いところを選びとって真似て、悪い人であれば、そうならないようにと反省する。
「解説」
常に謙虚に学ぼうとする気持ちがあれば、どこにでも師となる人物がいます。それに気付けるかどうかは、その人の心がけ次第です。
学ぼうとする場合、とかく有名な先生につかなければならない、とか、難しい本を読まなければならない、と構えてしまいがちですが、必ずしもそうとは限りません。まずは自分の身の回りを見渡してみてください。
そして、人の良いところは真似て自分のものとし、人の悪いところは反面教師としてそうならないように努める。周囲のあらゆるものから学び、自分のものとして身につけていきましょう。
このことに関して、「韓非子」にはこんな興味深いエピソードが載っています。
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管仲(かんちゅう)と隰朋(しゅうほう)が桓公(斉国の王)に従って孤竹を討伐した。
春に出陣して冬に帰ってきたので道に迷ってしまった。
管仲が言う。「老馬の知恵を借りましょう」と。老馬を放して後について行ったら、道が見つかった。
また、山の中で水が無くなった。
隰朋が言う。「蟻は冬には山の南にいて、夏には山の北にいます。蟻塚の高さが一寸ならば、その下一仞の深さに水があります」と。そこで地を掘り、水を得た。
管仲のような賢人や隰朋のような知者でも、自分の知らないことに出会うと老馬や蟻でさえ師とすることを憚らない。今の人は愚かな心を持ちながら聖人の知恵を師とすることさえ知らない。これは実に誤ったことである。
「韓非子」説林上篇より
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管仲、隰朋は、どちらも斉の国の重臣で、賢人として知られています。そんな彼らでさえ、馬や蟻からでも学ぼうとします。
積極的に学んでいきましょう。
十七,
「書き下し文」
子曰く、学は及ばざるが如くせよ。猶(なほ)之を失はんことを恐れよ。
「原文」
子曰、學如不及、猶恐失之。
「意訳」
武術を学び、練習するとき、自分はまだ充分でないという気持ちをいつも持って取り組め。しかも、得たものは忘れて失わないように心がけよ。
「解説」
技や套路を練習するとき、自分はもう完璧だ、もうその技はできるようになった、と思ってしまうと、そこで成長は止まってしまいます。
例えば、この技の使い方はこうだ、と学び、練習し、会得したとします。そして、自分はもうこの技をマスターした、と思い込むと、もうそこからその技の別の使い方や応用、変化は生まれなくなってしまいます。まだまだ充分ではない、という意識があるからこそ、疑問や問題点が見えてきます。それが次の気づきを与え、さらに深い理解へと導いてくれるのです。
そして、覚えた技や套路は忘れないように心がけましょう。日々の鍛錬の中では、やるべきことが沢山あります。基本功、基本の技、単打、歩法、套路、対練、散打、兵器、あれもこれも。さらに、新しいことも覚えていかねばなりません。そんな中で、しばらくやらなかったことなどがあると、つい忘れてしまう、ということがあります。
私自身にも経験があります。せっかく教えてもらった套路を、忘れてしまったり。随分と後悔したものです。
日々の練習の中で、習ったことを全部やれたら良いですが、時間や体力には限りがあります。また、時期によってはここを重点的にやりたい、とか、ここが苦手だからしばらくはこの練習に集中したい、など、さまざまな事情があることも理解しています。
ですから、何か忘れない工夫を自分なりにしておきましょう。幸いなことに現代では簡単に動画を撮って保存しておくこともできます。その動画を無理に公開する必要はありません。自分の練習のために保存しておけば良いのです。
また、動画を撮って、自分自身の動きを客観的に見ることは、想像以上に自分にとってプラスになります。客観的に自己分析をして問題点をあぶり出し、武術家としてさらなる高みを目指して練習に励みましょう。
二十三,
「書き下し文」
子曰く、後生(こうせい) 畏(おそ)る可し。焉(いづく)んぞ来者(らいしゃ)の今に如(し)かざるを知らんや。四十 五十にして聞こゆる無きは、斯(こ)れ亦畏(おそ)るるに足らざるなり。
「原文」
子曰、後生可畏。焉知來者之不如今也。四十五十而無聞焉、斯亦不足畏也已。
「意訳」
若者を侮ってはならない。若い後輩よりも、現役の先輩の方が優れていると、どうして分かるのか。四十、五十となっても、まだ世間にその名が聞こえないようならば、畏(おそ)るるに足りない。
「解説」
相手が若者や初心者だと見るや否や、急に先輩風を吹かせて得意げに蘊蓄(うんちく)を披露したがる。そんな人物を周りで見かけたことはありませんか?自分自身がそうなっていることに気づいていない、なんてこともあるかもしれません。そういう人は必ず若者からも敬遠されます。
学而篇に「吾 日に吾が身を三省す」とあるように、自分自身がそうなっていないか、日々、自分自身を振り返って見つめてみてください。
誰にでも初心者の頃はあります。初心者なのだから未熟なのは当然です。しかし、その未熟な中にもキラリと光る才能を見つけ出し、それを伸ばせるように導き教えられる。そうであってこそ本当の武術家であり、立派な指導者となれるのです。
「指導者になんてなるつもりはない、自分自身の技を磨き追求すればいい」そういう方もいるかもしれません。それはそれで素晴らしいことですが、いささか孤独です。さらに、後輩の指導をすることで気づくことも多く、そういう意味でも自己の成長の機会を自分自身で手放してしまっているのです。
40歳、50歳と、歳を重ねたとき、世間にその名が聞こえてこないようならば、畏るるに足りない。手厳しい言葉です。先輩風を吹かせて胡座をかいていると、いつの間にか後輩たちに追い抜かれてしまうぞ、と戒めているのです。
また、若者の中には、早々にその素晴らしい才能を開花させる人もいます。将来を思うと末恐ろしい。自分なんてこの若者には遠く及ばないのではないか。そう感じることもあります。
そういう若者に出会ったとき、刺激を受けて、素直に自分ももっと頑張ろう、と思えるか、老兵は去るのみ、と勝手に諦めて投げ出してしまうのか。決めるのは自分自身です。雍也篇にある「今 女(なんぢ)は画(かぎ)れり」を思い出してください。自分の限界を決めるのは他の誰でもなく、自分自身です。そこで立ち止まることはありません。
先生、同期、先輩、後輩。同じ武術を志す仲間同士、切磋琢磨しあって高みを目指す。そういう人間関係を築いていこうと、相手を思いやり、自ら率先して努力する。そういう日頃からの努力や心がけが、広くは、「己を鍛え、人格を磨き、心身ともに健康で豊かな社会生活を送れる、文武を兼ね備えた立派な武術家になる」という理念に結びつくのだと信じています。
二十一,
「書き下し文」
子曰く、君子は諸(これ)を己に求め、小人は諸(これ)を人に求む。
「原文」
子曰、君子求諸己、小人求諸人。
「意訳」
教養と実力を兼ね備えた立派な武術家は、武術の技術を身につけて自分自身で実践できることを目指す。
知識ばかり豊富で実力が伴わない武術家は、武術の技術を自分自身で身につけようとせず、自分の先生や他の実力者を引き合いに出して技術を評論する。
「解説」
自分の学んでいる武術について論じるとき、教養と実力を兼ね備えた立派な武術家は、その武術の身法や技術を自ら身につけてそれを実践して見せて論じることができます。
ところが、知識ばかり豊富で実力が伴わない武術家は、自分ではまだその身法や技術が身についておらず、実践することができないので、自分の先生や他の実力ある人物の過去の動画などを引き合いに出して論じます。
実力者の動きを見て学ぶことは重要なことですが、「吾 日に吾が身を三省す」の章句の中にもあったように、「習わざるを伝えしか」つまり、武術の技や身法がまだ充分に身についていないのに、知ったふりをして仲間や後輩に教えるようなことはなかったかどうか、ということは意識しておくべきことです。
自分自身が個人として理解したと思うのは問題ないのですが、その理解を正しいとして後輩や他者に教えるとなると、それは問題です。
自分の学んでいない武術について論じるときは、聞く相手もそれを分かっていますから、こう思う、という個人の意見として受け止めてくれるでしょう。
しかし、自分が学んでいる武術となると、その門派の看板の一端を自分も担っているんだという自覚が必要です。軽はずみな言動は慎むべきでしょう。
二,
「書き下し文」
仲弓(ちゅうきゅう)仁を問ふ。子曰く、門を出でては大賓(たいひん)に見(まみ)ゆるが如くし、民を使ふには大祭(たいさい)を承(う)くるが如くす。己の欲せざる所は、人に施すこと勿(なか)れ。邦(くに)に在りては怨みな無く、家に在りても怨み無し、と。仲弓曰く、雍(よう) 不敏と雖も、請ふ 斯の語を事とせん、と。
「原文」
仲弓問仁。子曰、出門如見大賓、使民如承大祭。己所不欲、勿施於人。在邦無怨、在家無怨。仲弓曰、雍雖不敏、請事斯語矣。
「意訳」
仲弓が仁について質問した。孔子は答えた。「一歩外に出たなら、目上の人に接するときは、重要な賓客を接待するときのように慎んだ態度や気持ちを忘れないようにし、後輩に指示をするときは、大祭の担当官のように同じく慎んだ態度や気持ちであることだ。
自分が望まないことは、他人にもするな。
先生に教えを受けるとき、私欲なく素直に学べば、他人からは怨まれない。兄弟子に教えを受けるとき、私欲なく素直に学べば、他人からは怨まれない」と。
仲弓が言った。「私、愚か者ではございますが、その教えを生涯忘れません」と。
「解説」
仲弓は孔子の弟子で、冉雍。人格者として知られた人です。
社会生活における、自分の心の持ち方、人への接し方を解いています。相手が先生や先輩であろうと、後輩であろうと、慎み深く接するのが良い、と解きます。慎み深く、というのは、「俺が俺が」と自分のことばかり言うのではなく、まずは相手の立場に立って相手の言い分に耳を傾ける、ということです。言い換えれば、相手に対する敬意を持って接するべきだ、ということです。
自分が望まないことは、他人にもするな。自分がされて嫌なことは、相手もされたら嫌だと感じるでしょう。それが分かっていて、それでもやってしまう、というのでは、相手に嫌われたり、怨まれたりしてしまいます。そこまで考えが至らないのであれば、相手に軽率なやつだと思われ、距離を置かれるでしょう。
教えを受けるときは、私欲なく素直に聞くべきです。途中で口を挟んだり、分かった気になって自己流でやったりすると、相手はもうそれ以上あなたに対して教えようとは思わなくなってしまいます。
五,
「書き下し文」
子曰く、詩を誦すること三百、之に授くるに政(まつりごと)を以てして達せず、四方に使ひして、専対(せんたい)する能(あた)はざれば、多しと雖も、亦(また)奚(なに)を以て為さんや、と。
「原文」
子曰、誦詩三百、授之以政不達、使於四方、不能專對、雖多、亦奚以爲。
「意訳」
詩を三百篇も暗誦するほど知識が多くあっても、内政を担当しても達成することがなく、外交を担当しても相手と渡り合うことができない、というのでは、多くを暗誦できるといっても、取るに足らない。
「解説」
詩とは、孔子の時代に於いては重要な教養のひとつでした。
これを武術に置き換えて読むには、解釈にひと工夫必要です。
詩を武技や身法などの理論と解釈します。
内政は内向きなことですから、自分自身のことと解釈します。すると、これは基礎的な動作から套路などのような、ひとりで鍛錬して目指すこと、となります。
外交は外向きなことですから、相手とのことと解釈します。すると、これは対練から散打まど、相手との鍛錬で目指すこと、となります。
武技や身法、技の手順、戦闘理論など、武術においても知っておくべき知識というものがあります。しかし、それを知っていても、実際に自分がそれを実践できないのであれば、何の意味もありません。相手との打ち合いで、その武術の技が使えないのでは、意味がありません。知識ばかりで実力が伴わない、そんな人物は取るに足らない、というわけです。
理論を学んだら、それが実際に出来るようになるまで、繰り返し練習しましょう。
二十三,
「書き下し文」
子曰く、君子は上達(じょうたつ)し、小人は下達(かたつ)す。
「原文」
子曰、君子上達、小人下達。
「意訳」
教養と実力を兼ね備えた立派な武術家は、武技の根本や全体を理解している。
知識ばかり豊富で実力が伴わない武術家は、武技の末端や部分について知っている。
「解説」
君子とは、知識と道徳を兼ね備えた教養人のことを言い、小人とは、知識が豊富な知識人のことを言います。
これを武術家に置き換えると、
君子とは、武術に関する知識や道徳を兼ね備えた教養人であることに加えて、それに見合う実力を伴っている人物を言います。
小人とは、知識は豊富なのですが、それに見合うだけの実力が伴っていない人物を言います。
そして、君子も小人も、どちらも指導的立場にいる人物である、という点では共通しています。
もし、あなたが一般の学習者の立場に立ったとしたら、どちらの指導者、もしくは先輩に、武術を教わりたいでしょうか。
豊富な知識を持っていて、それを教えてもらえる、というのは魅力ですが、その教える側の人の実力が伴っていないと、せっかくの知識にも説得力がありません。
理論、理屈を学ぶことも大切ですが、それを実践できるだけの力量も身につけられるよう、日々の鍛錬に励みましょう。
二十四,
「書き下し文」
子曰く、古(いにしへ)の学ぶ者は己の為にし、今の学ぶ者は人の為にす。
「原文」
子曰、古之學者爲己、今之學者爲人。
「意訳」
昔の学徒は、自己を鍛えるために学ぶことに努めていた。今の学徒は、他人から名声を得るために学び努めている。
「解説」
対句として非常に美しい文章です。「昔はこうだったが今はこうだ」と、昔を引き合いに出して今を批判する、という手法は良くあります。注目すべきは、昔と今がどう違うか、ということではありません。
学ぶ者には、「自己を鍛えるために学ぶ者」と、他人から名声を得るために、つまり「自分が有名になるために学ぶ者」がいる、という点が注目ポイントです。昔だろうが今だろうが、いつの世にもそういう人は一定数います。
「もっと強くなりたい、もっと上達したい」そうやって向上心を持って学ぶ人と、有名な先生に師事し、「自分はその有名な先生から直接教えを受けたんだ」という名声欲しさのために学ぶ人。どちらの学び方が、より自分の身につくでしょうか。
当然「もっと強くなりたい、もっと上達したい」と思って学ぶ人の方が上達しますよね。
その人の普段からの発言と行動をよく見てください。自慢話ばかりで、技や型の動きが全然出来てない、という人は、側から見ればすぐに分かります。理屈ばかりで行動が伴わないようでは、武術家として失格です。
自分自身の成長のために学び、考え、技を磨いて高みを目指していってくだい。
ただし、優れた武術家が優れた指導者であるとは限りません。
ある程度のレベルに達したら、後輩の指導にも当たれるように、指導の仕方なども学んでいくと良いでしょう。
自分の学んだことを、他人に教える、というのは、自分自身にとってこの上ない大きな学びに繋がります。アウトプット、などと表現しますよね。教えることで始めて気づくことも多いのです。
自分自身が成長できるだけでなく、自分の仲間や後輩も一緒に成長していける。仲間同士で切磋琢磨しあえる素晴らしい環境を、自分自身が率先して作っていける。そのような人材を目指して練習に励みましょう。