通背拳と僕

自己紹介がてら、自分自身の中国武術 通背拳との出会いを語ろうと思います。

 

中学の頃、おそらく誰もがそうであったように、漫画やテレビの影響を受けて、プロレスやボクシング、剣道などに興味を持った。(球技は全般的に苦手だった)

当時、特にボクシングが好きで、自分もやってみたい、と思っていた。しかし同時に、自分自身が近眼だったこともあり、その道の門を叩くことを最初から諦めてもいた。

 

そして、高校生になった頃、ジェット・リー(当時はリー・リンチェイ)やジャッキー・チェンのカンフー映画に魅了された。昔から、周囲の人(友人知人)が誰もやってないことをやりたい、という天邪鬼な性格だったことも手伝い、すぐに「これだ!中国武術がやりたい!」と思うようになった。

 

田舎の書店には、それほど多くの種類の本が置いてあるわけではなかったが、中国武術関連の本が並ぶコーナーもあった。もちろん当時の自分には中国武術に対する何の知識も無く、どの本が良いか、などということも分からない。そんな中、偶然手に取ったのが、今の僕の師である青木先生の本だった。タイトルは「八大門派戦闘理論」だったと思う。

早速買って帰り、パラパラとページをめくっていった。

その中で、初めて通背拳というものの存在を知った。

 

日本では珍しい、というようなことが書かれていて、天邪鬼な僕は、すぐに「これだ」と思った。ただ、当時の愛媛では、通背拳はおろか、中国武術を学べるようなところも無かった。

高校生の時は、ただひたすら、書店に並ぶわずかな中国武術関連の書籍を買い漁り、あれこれ読んでは、中国武術への思いを馳せていた。

 

高校3年生になり、進路を決めなければならなくなった当時の僕は、これをチャンスと東京の大学(東洋大学)を志望した。若気の至り、その当時の僕は、青木先生へ通背拳を学びたいから、関東の大学を受験する、というような内容の手紙を送っていた。今思うと随分青臭く恥ずかしい内容だったと思う。

 

さすがに中国武術がやりたいから東京の大学を受験させてくれ、とは親にはいえず、当時から関心のあった中国哲学を学びたい、それが学べるのは東洋大学しかないんだ当時の東洋大学には中国哲学文学科という珍しい学科があった)、と言って親を説得し、受験。見事合格できた。

 

上京し、大学のサークルには入らず、すぐに功賀武術会の門を叩いた。初日のことは今でも覚えている。日曜の午後、浦和市内(当時)、南浦和駅近くにある公園。行くと、数人が集まって中国武術の練習をしていた。

 

 

それから僕の通背拳ライフが始まったのである。当時はまだ功賀武術会では白猿通背拳を教えていなくて、通背拳は祁氏通背拳のみを教えていた。なので当然僕も祁氏通背拳を学び始めた。

 

ある時、中国武術の雑誌「武術(うーしゅう)」に、白猿通背拳の特集された記事が出た。おお、何か面白そうだ、と思った僕は、何を思ったか、青木先生に記事を見せて「青木先生、僕、これやってみたいです」って言った。今にして思えば、なんという無謀なことを、と思う。やりたいって言って、はい、じゃあやりましょう、とは当然ならない。張貴増老師へのツテもコネも無い。

 

ところが、それからしばらくして、青木先生が「見つけたよ」と言ってきた。「何を見つけたんです?」って問うと、「いやいや、白猿通背拳。やりたいって言ってたでしょ」と。しかも、一緒に張貴増老師のところへ連れて行ってくれる、という。何という奇跡。こりゃもう行くしかない、と。言い出しっぺが行かなければ話にならない。

 

 

これが僕と通背拳の出会いの物語。

こうして、瀋陽では鄭剣鋒老師に祁氏通背拳の指導を受け、北京牛街では張貴増老師に白猿通背拳の指導を受け、今に至るわけであります。

青木先生の尽力に感謝し、これからも祁氏通背拳、白猿通背拳を伝承していきます。